偽脚本書きが漫画に挑戦 -2ページ目

「AKIRA」 映画版 

 AKIRA 作者 大友 克洋


ストーリー 近未来のNEO東京を舞台に、孤児院で育った主人公 金田と哲夫が織り成す兄弟ゲンカ



影響をモロに受けた!

 異質!ストーリーの筋を追えばついていけなくなる。しかし場面、場面をその場、瞬間的に捉える見方をすればこの作品がいかに素晴らしいかを気づくはず。



 僕は、この映画を50回以上見ている。 この作品は見ていて気持ちが良い。台詞のほとんどをそらでいえる。一つの作品をこれだけ見れるのはストーリーというよりも感覚で追えるものだと思う。



 この作品では、主人公、金田また力を得て暴走する哲夫しかりまた登場キャラクター全員が臭い台詞を放つ。


 これは松本大洋のやり方また多くの舞台のやり方によく似ている。この作品には現実感というより強烈感を重視した作品としている。


強烈感とは!

 最近、NANAやのだめカンタビーレやはちみつとクローバーのような少女漫画を絶賛した。


だが彼らの作品はどちかかというと現実生活で役に立つぐらいのリアリティーと言葉で説得を持たせている。


しかしながら強烈に印象に残る台詞を第一とする作品には小気味よさが宿る。


 強烈感とは、リアリティーとうよりもその場のかっこよさや重みを加えようとする感覚のことだと思う。


この感覚に強烈に特化した作品がAKIRAと考えて良いと思う。 



見所

 このAKIRAは、負け犬の遠吠えの心地よさがある。 強烈な劣等感や敗北感、つまり落ち込んでいる時にこれを見て欲しい。

 これは音楽を聴く感覚で見る映画だと思う。多くの作家が、AKIRAという映画を尊敬するのは

感覚を描けるものこそ真の才能ある人間であることの証明だ。

大きなストーリーを考えた時、結構うまくいったなーと思ってもつまらない時がある。それは強烈な感覚が不足しているからだ。

 激怒や歓喜、嫉妬、等の第一感覚を刺激することが作品の価値を大きく左右するのではないか?

読者は面白いか?面白くないかで判断する。 僕は素晴らしい作者とは感覚を描ける人間だと思う。



「鋼の錬金術師」 最前線漫画特集   考察 前編

 鋼の錬金術師 アニメ版、全51話 荒川 弘


ストーリー 錬金術が科学として認められている世の中。


この世界では、等価交換の原則が存在する。何かを得るためには同等の何かを犠牲にしなければならない。


弟アルと兄エドは、母親をなくした。錬金術で母親を蘇生しようとしたが、アルの体全てとエドの片足と片手を失ったにもかかわらず母親は蘇生しなかった。なんとか兄のエドは、鎧にアルの魂を定着させることには成功する。


アルとエドは、自分の身体を取り戻すために賢者の石を探す旅に出る。 


作者はなんと、女の人!

考察: 等価交換の法則を基本原則にしたワンアイディアを膨らませるだけ膨らませた傑作。


エヴァンゲリオンが、アニメ放送で一つの歴史を作ったが、おそらくこの作品も歴史に残るだろう。


この作者は、なんと女の人だった!実名は荒川弘子なんだそうだ。どうりで、この作品では


兄弟愛や家族愛を軸に描いている。 おそらく男性の作家は描かないであろう部分を紹介する。


何話だったか忘れたが、出産に主人公が偶然、立ちあうシーンがある。主人公のアルとエドはあたふたして


何もできないのだが、出産した女の人は、「そこにいてくれたじゃない」と言うシーンがある。これは生命の


尊さをあらわすためなのだろうが、私だったら削る。というか書きもしない。これは私が男だからだろう。


しかしこの作家は、普通の凡夫の男性作家は思いつかないようなエピソードを次から次へと盛り込んでい


く。生まれた娘がかわいくてしかたがない夫は職場にいる人間に写真を配ったり見せびらかしたりする。


これも私なら描かない。でもこの作品では、かなりの機会このエピソードを使っている。


つまりこの作品では、日常を混在させるという少女漫画と、大きなテーマを扱うことに長けた少年漫画の


特徴を両立させている。


批判すらできない傑作を作り上げたこの作家がうらやましい。こういう作品を作れる可能性のあるこういった


職業を誇りに思わなければならない。


ちゃんとしたストーリー考察は、次の回にします。 それだけの価値がある。


「ハチミツとクローバー」 最前線漫画特集

ハチミツとクローバー  1~7巻 以後続刊 



少女漫画は個人的に敬遠していた。なぜなら先入観として恋愛に重きを置いているからだ。大きな普遍的なテーマであるにしても少女漫画の大半が恋愛を推奨しているようでいやだった。


 また少年漫画が嫌いな人は、おそらくなぜ夢や努力といったものばかりがテーマの作品を作るのか?それだけじゃないはず。と思いあまり好きになれないと言うに違いない。


 ハチミツとクローバーを読んでみて思ったことは、これは現実生活で役に立つなーということ。恋愛に限らず人間関係で悩む姿をうまく描写している。日常生活で悩む人間の姿をうまく描写している。例えば片思いしている人が好きな男を諦めきれない気持ち。


 このハチミツとクローバーは驚嘆に値する傑作だ。 ハチミツとクローバーでは、片思いに焦点をあてながらも、やりたいことがみつからない人の悩みややりたいことをやっている人の悩み等をうまく書いている。


 竹本というキャラクターは自分を見つめなおすためにある日、自転車で旅に出る。旅をすることで悩みが解決するのではないかと思っておなじく自転車でずっと旅をしたことがある自分にとっては見ていて恥ずかしい気持ちになった。


 少女漫画の特性として、現実生活の悩みを焦点にしているような気がした。少年漫画なら根性論になってしまうところを日常生活と同じように現実逃避したり悩んだりする。


 人間臭いとでも言ったら良いのかなー。この漫画を読んで私はしばらくなにも書く意欲を失ってしまった。


 この人は、みんなの目線で書いているのだと思う。 現実に立ち向かうために読む漫画と言ったら良いのだろうか?


 

 


 

「ベルセルク」 キャラクターとは人間の置かれた立場の象徴!

ベルセルクtaiki  1~28巻 以後続刊  作者 三浦健太郎



ストーリー 天才的な戦略で平民から貴族にまでのし上がった鷹の団の団長グリフィスは、唯一、心の底から信頼していたガッツという主人公の鷹の団の脱退によって心のバランスを失ってしまう。そして貴族にまでなった地位を、王様が溺愛していたお姫様を夜這いしたことがバレて罪人になってしまう。


 拷問によって身体も心もボロボロになったグリフィスは、自殺しようとする。その時このファンタジーでのキーアイテムであるベヘリットというアクセサリー(グリフィスが気に入っていつも見につけていた不気味なアクセサリー。占い師によると王者になる人間が所有する運命にある)がグリフィスと共鳴する。


 キーアイテムではこれまで愛してきたものをいけにえにすることによってお前は王者になれるといわれる。

グリフィスはこれまで自分が王様になることだけを生きがいに死にもの狂いでやってきたことを思い出して、親友であるガッツや、いままでともに戦ってきた鷹の団をいけにえにすることを選ぶ。


 ガッツともう一人の女性キャスカだけが生き残る。ガッツは、グリフィスに復讐を誓うのだった。



構図: グリフィスというキャラクターは、夢を叶えることができるだけの能力を持つ人間の象徴。だが別格の人間であるがゆえに孤独に陥っている。またガッツというキャラクターは、なにをやっていいのかわからなくて悩みながら人に影響を受ける人間の象徴。ガッツはグリフィスに認められるためには自分で手にするなにかが必要だと感じグリフィスのもとを離れる。また脇役としてコルカスという人物は、夢を追っていたが、自分の力量に気づき現実を見て生きていこうとした人間の象徴。またジュドーは、なにをやってもうまくできたが一番にはなれなかった人間の象徴。


このベルセルクの14巻までのテーマは「夢」である。生きていくためには不可欠ともいえるこの要素には数多くのジレンマがある。夢を見て突き進む人間を社会は認めているにもかかわらず夢を達成する人間は極端に少ない。夢を見て突き進んだ人間が失敗した時、社会はその人間を努力が足りなかったばか者ということになる。また夢を追っていきている人間をうらやむものがいて、また夢を追う人間を突き落とそうとする人間も少なからずいる。


 このジレンマを、8巻でのガッツが鷹の団を脱退する時に引きとめのために話し合う酒場のシークエンスと13、14の夢のために苦しみぬいたグリフィスがなお夢のために仲間をいけにえに差し出す場面によく表れている。 


 この作品は、主人公格の人間がとても象徴的に描かれているため、とてもわかりやすい。



「ベルセルク」 8巻の最高のシークエンスを分析

ベルセルク  1~28巻 以後続刊 作者 三浦健太郎


ストーリー: かつて属していた元団長のグリフィスに復讐をするために生きる主人公ガッツの壮大なファンタジー。


 私が高校生の頃、深夜にやっていたアニメ。鷹の団という傭兵集団が、どんどん武功を挙げて出世していく話だと勘違いしていた。その期待は見事に裏切られ鷹の団は、崩壊にむかっていく。


 構図:団長グリフィスは天才であるがゆえの孤独を感じていたという設定。唯一心を許せる友ガッツの脱退によって歯車が狂ってしまい罪を犯してしまう。(ここらへんは漫画で読んでください。)ガッツが鷹の団を脱退した理由は、グリフィスの下でずっといること自分に歯がゆさを感じたため。友情が嫉妬に変わり復讐へと転じる話だと私は解釈しています。


忘れられない思い出:8巻で、ガッツは死に物狂いで戦い名誉を手にしたにもかかわらず鷹の団を出て行くことを決意する。その理由はガッツの台詞によると「オレは自分で手にする何かであいつ(グリフィス)に並びたい。オレはあいつにだけはなめられるわけにはいかないんだ」

 この言葉を聞いたコルカスという脇役が激怒する。「馬鹿いってんじゃねーそれこそガキのたわごとだぜ!わかんだろ!あいつ(グリフィス)は特別なんだよ!人を斬ることしか脳のねえ鷹の団の切り込み隊長(ガッツ)なんて分不相応な身分についてられるのもすべてグリフィスあったればこそだろうが!!」


 ガッツ:地位や階級なんてものいには興味ねえ。おれが欲しいのはもっと別の自分で勝ち取る何かだ。


激怒 コルカス:自分で勝ち取る何か!?そんなもんが簡単にみつかりゃ苦労しねえよ!もし運良く見つかったとしてもそこで勝者になれるのはほんの一握りの人間だけだ。大抵の人間は自分の力量や器と自分のおかれた現実に折り合いつけて何とかやっていくもんなんだ!夢さえあればいいなんて言ってるヤユはよくいるけどな!!俺はそういう野郎をみるとムシズが走るぜ。


 夢さえあればか。そんなもんは現実に目を向けられないよわい人間の逃げ口上だよ!


激怒したコルカスはガッツと話していた酒場から出て行く。コルカスを昔からよく知っていた脇役のジュドーがなぜコルカスがこんなに怒ったかを説明する。


コルカスは昔自分で盗賊の頭領をやっていたがグリフィスに敗れてそれをやめたという話。


コルカスは自分で手にする何かを持っていたのかもなと言っている。ジュドー本人は、自分は何をやってもうまくできたけれども一番にはなれなかった。だから一番になれそうなグリフィスについていこうと言っている。


ジュドー: 最初から何も欲しがらない奴なんていないのさ


良いシークエンスだ。 ここは最高の場面だ。 8巻


この場面だけでもベルセルクを読む価値がある。おそらく作者はこの場面を書くことで一つの物語の沸点を達成したのではないか。これまで一緒に戦っていた仲間が、ガッツの脱退により起きた一場面によって強烈な人間味を持たせることに成功している。


 よく考えてみると人間はほんとうに夢というジレンマに苦しんでいると思う。一生懸命やったとしてもうまくいくとは限らない。けれどそれを諦めてしまうと、夢をかなえた人間を見ると自分に強烈な劣等感を感じてしまう。それでコルカスが言うように現実を見てなんとか生きていくしかなくなる。自分の夢をすり変えているのはジュドーなのだと思う。コルカスとジュドーとガッツと夢をかなえたグリフィス。


 作品の登場キャラが一つ一つの人間の現状をとてもよく象徴している。これはとても作品を書く上で参考になると思う。


 象徴的な存在をどれだけうまく描けるかによってその作品の価値は決まるのではないか。ときどき同じような境遇の人間を描いてしまい失敗することがある。


 それは、登場人物が、人間の立場をあらわすシンボルであるということを忘れてしまっているからではないか。 


 このベルセルクでは、ガッツという夢を持つことができない象徴と夢を諦めた人間の象徴であるコルカスとジュドーまた夢を叶えたにもかかわらず幸福に満たされることのないグリフィスという象徴がとてもうまく描けている。 


 このシークエンスこそ最高の場面なのだ。でも勘違いしてもらっては困るのが、このシークエンスのためにこれまで人物を描きあげてきた努力と伏線の数々がここで一つにつながる点にある。


 このシークエンスは見せ場である。しかしこれまで積み上げてきた物語をおろそかにしてしまう作品がよくある。 見せ場だけを見せられても何の感動もないだろう。げんにこの上に書かれている文章に感動することなんて不可能なのだ。 


 よく考えるべきは、象徴となる人物を書き分ける力と見せ場のためにどれだけ伏線をはれるかどうかなのだと思う。





「編集王」に見る浪速節の力

編集王

 全16巻 作者 土田 世紀 名言:「お前の人生は全20巻じゃねーんだ」


ストーリー:明日のジョーを読んだことがきっかけで、ボクシングに青春を捧げた主人公、桃井カンパチは網膜剥離によってボクシングを続けることができなくなってしまう。そして悩んだ後漫画の編集者になり編集王を目指していく。しかし漫画界の内側は想像していたのとはまったく違う、世界だった。


漫画業界を考えさせられる。


週間少年ジャンプなどを見ていると漫画のジャンルがある程度決められていることがわかる。

冒険ものにサッカー、野球といったスポーツもの、ラブコメ。ジャンルは雑誌によってある程度決められているようだ。漫画家はけっして書きたいものを書こうとしているのではないのかもしれない。そんなことを考えさせてくれるお仕事漫画。


作品の構図:主人公カンパチは、編集者として漫画家の作家性を信じている。しかし編集長は、ヤングシャウト(架空の漫画雑誌 100万部雑誌として扱われている)の売り上げを伸ばすためにはエロやいままで売れたことのあるジャンルを作り続ければいいと考えていた。カンパチによって悪者とされてきた、編集長や名前だけが一人歩きした大物漫画家にも、かつては強烈jな漫画にたいしての情熱があったことが分かってくる。


 簡単に言ってしまえば、カンパチという純粋な主人公によって、情熱を失っていた編集者や漫画家が心を改めていくという構図。


物作りのジレンマ: 読者の評価が絶対であることが、作品の質を上げることを妨げることもよくある。例えばドラゴンボールやスラムダンクといった漫画は一億部を超える売り上げを達成した。ならばその二番煎じも受けると考えるのは当たり前だ。実際にワンピースや数あるスポーツものは売り上げを順調に伸ばしている。しかし新しいものが売れる土壌はどんどん削られていってしまう。ドラゴンボールが作り上げたセオリーが面白いのは当たり前だ。でもそれは自分で作ったものといえるのか?


 王道と呼ばれるものを一生懸命作ることが難しいことであることはわかっているが、常に新しい考え方やストーリーを生み出していくことこそ作品を作っていく意義なのではないかと思う。読者は面白いものを捜し求めている。いままで作り上げてきたセオリーを用いたパクリに勝つのは容易ではない。



面白いものが売れるというのは避けがたいジレンマなのではないかと思う。






「ビリーバーズ」にみるオリジナリティーの確立法

ビリーバーズ 全5巻j  評価 10点満点中 9点

山本直樹



ストーリー 信仰宗教団体に属する三人が孤島での精神修行をする話。


天才漫画家! 山本直樹の作品はジャンルでいうと、エロ漫画だ。しかしエロ漫画と言ってはいけないほどこの漫画には独創性がある。漫画のセオリーを逸脱している点がある。まずコマの中に存在する文字数がやたらに多い。またコマ割りも独特なものがあり独創的。またこの漫画はなぜか飽きない。ドラマ性が強いというわけではなく、普通の会話に少し変な部分がある。


松本大洋やつげ義春の匂いがする。


主な連載作品 上記のビリーバーズもさることながらIKKI(芸術漫画を数多く連載する漫画雑誌。松本大洋であったり黒田硫黄(茄子もしくはセクシーアンドボイスロボで有名)が連載していてなかなか面白い雑誌。この雑誌からはG線上ヘブンズドアなどの優秀な作品が数多くでている。)で連載していた「安住の地」も素晴らしい。


ジャンプやマガジン等のメジャー雑誌では描くことのできない人間模様を描写する力がある。漫画をよく読む人なら是非読んでみて欲しい。 


こういった漫画家が存在できる漫画業界の裾野はとても広いと思う。


これからちゃんと更新していくのでよろしく





「シガテラ」 に見る筆者のテンションの変遷

シガテラ 現在1~5 



ストーリー 主人公 荻野はいじめを受けていた。辛い生活を送っていたがある時、南雲さんという綺麗な彼女ができる。また荻野はその後、いじめからもあっけなく解放される。しかしそれから荻野にかかわった人間は、どんどん不幸になっていく。主人公 荻野は自分が疫病神ではないかと考えはじめる。



気に入った点:これまでの古谷実の作品の主人公は救えないほど不幸な人間だった。共感を得るために主人公が不幸な境遇であることは効果的だと思う。しかし今回の主人公 荻野は、不幸ではない。綺麗な彼女ができて不幸になりかけても寸前のところで救われる。これは古谷実の世界では有り得なかったことだと思う。新しい試みだと思う。


 古谷実はこの作品で意図的にこれまでの作品の呪縛から逃れようとしている。これまでなら容赦なく主人公を不幸のどん底に落としていたのに今回はそれをしない。おそらく古谷実の今回の挑戦は、主人公を普通の人間として描くこと(厳密にいうと主人公を不幸の一歩手前で止める)だったと思う。だから主人公、荻野に共感を覚える人間は少ないはずだ。


 しかし根底の部分では変わっていない。彼のテーマは、おそらく「逃れられない運命」でありこれまで古谷実作品で主人公が担っていたタスクは、荻野にかかわった脇役にゆだねられている。脇役たちは荻野に出会うという運命が引き金になり救われない不幸に落ちていくことになる。


講評:シガテラはおそらく傑作としては世間に認められないだろう。一番登場回数の多い主人公が共感を持てないキャラクターであるのは、漫画のセオリーを逸脱しているといわざるを得ない。また前作の「ヒミズ」とテーマが変わっていないのはミスだと思う。ヒミズと比べた場合、密度の濃さが圧倒的に「ヒミズ」のほうが上だからだ。筆者の描きたいことはそうそう変わるものではない。おそらく古谷実は「ヒミズ」で燃え尽きてしまったのではないかと思う。


ヒミズとシガテラの決定的な違い


 これまでで描きたかった世界を、情熱的に余裕なく描いたのが「ヒミズ」だったと思う。筆者は満足のできる作品に仕上がったと納得できたはずだ。しかしそれは時間とともに失われていく満足だったと思う。これは仕方が無いことだ。作品を作り上げた時の満足は薄れていくものだ。そして別パターンの方がよかったのではないかと考えるようになる。こうした方が良いのではないかと思って筆者が余裕を持って書いたのが「シガテラ」なのではないか。類似点がこの2作品には多い。別パターンを書いたのだと私は思っている。


 しかし今回の「シガテラ」には余裕がありすぎた。つまり考える時間が多すぎたということ。考える時間が多いほど密度や濃さは逆に薄れていくものだ。今回の作品は、その密度の薄さがでてしまっている。心の赴くままに書いた作品にはそうそう勝てるものではない。


 シガテラの最終回は白旗を挙げたかのように、突然終わりを迎えた。


感動は薄れていくものだ。しまいにはあの時の感動に慣れてしまって飽きてしまうものだ。もしあなたが今自分の中で作品にすべきものが思いついたならば心の赴くままに書いてみよう。時間をかけることで作品はよくなるとは限らない。ただこれ以上思いつかないと思うところまで考えてから書くことは大切だと思う。それからいっきに書き上げるのがよいと思う。




「脚本」の勝ち負けって何?

条件は3つあると思う。とにかく面白い。次に、人の心に残るもの。そして最後に自分が納得できたかどうか?

 

面白いものを作るためには、自分が納得できるものであってはならない場合もある。しかし作品の勝敗はこの全てが揃って勝ちなのだと思う。

 

作品を作る人にとって、他人の評価は嫌が上でもきになる。しかしもし他人の意見ばかりを取り入れた作品が、100点を取れるかというとそうでもない。作品の質を決めるのは、減点法ではなく加点法なのだと思う。

 

 結局、三番目の自分で納得できるかが問題だと思う。そう思わないとやってられない。

 

 

 

 

「言葉には力がある」 告別 宮沢賢治 

おまへのバスの三連音が
どんなぐあいになっていたかを
おそらくおまへはわかっていまい

その純朴さを希みにみちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のようにふるはせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を はっきり知って自由にいつでもつかえるならば
おまへはつらくてそしてかがやく天の仕事もするだらう

泰西著明の楽人たちが
幼齢 弦やけんきをとって すでに一家をなしたがように
おまへはそのころ
このくににある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった

けれどもいまごろちょうどおまへの年頃で
おまへの素質と力をもっているものは
町と村との一万のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとどまるものでない
(ひとさへひとにとどまらぬ)

云わなかったが
おれは四月はもう学校に居ないのだ
おそらく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音が正しい調子と其の明るさを失って
再び回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれはすこしぐらいの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮らしたり一日あそんでいるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏のそれらをかんで歌うのだ
もしも楽器がなかったら
いいかおまへはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり
空いっぱい
光でできたパイプオルガンを弾くがいい