「シガテラ」 に見る筆者のテンションの変遷
ストーリー 主人公 荻野はいじめを受けていた。辛い生活を送っていたがある時、南雲さんという綺麗な彼女ができる。また荻野はその後、いじめからもあっけなく解放される。しかしそれから荻野にかかわった人間は、どんどん不幸になっていく。主人公 荻野は自分が疫病神ではないかと考えはじめる。
気に入った点:これまでの古谷実の作品の主人公は救えないほど不幸な人間だった。共感を得るために主人公が不幸な境遇であることは効果的だと思う。しかし今回の主人公 荻野は、不幸ではない。綺麗な彼女ができて不幸になりかけても寸前のところで救われる。これは古谷実の世界では有り得なかったことだと思う。新しい試みだと思う。
古谷実はこの作品で意図的にこれまでの作品の呪縛から逃れようとしている。これまでなら容赦なく主人公を不幸のどん底に落としていたのに今回はそれをしない。おそらく古谷実の今回の挑戦は、主人公を普通の人間として描くこと(厳密にいうと主人公を不幸の一歩手前で止める)だったと思う。だから主人公、荻野に共感を覚える人間は少ないはずだ。
しかし根底の部分では変わっていない。彼のテーマは、おそらく「逃れられない運命」でありこれまで古谷実作品で主人公が担っていたタスクは、荻野にかかわった脇役にゆだねられている。脇役たちは荻野に出会うという運命が引き金になり救われない不幸に落ちていくことになる。
講評:シガテラはおそらく傑作としては世間に認められないだろう。一番登場回数の多い主人公が共感を持てないキャラクターであるのは、漫画のセオリーを逸脱しているといわざるを得ない。また前作の「ヒミズ」とテーマが変わっていないのはミスだと思う。ヒミズと比べた場合、密度の濃さが圧倒的に「ヒミズ」のほうが上だからだ。筆者の描きたいことはそうそう変わるものではない。おそらく古谷実は「ヒミズ」で燃え尽きてしまったのではないかと思う。
ヒミズとシガテラの決定的な違い
これまでで描きたかった世界を、情熱的に余裕なく描いたのが「ヒミズ」だったと思う。筆者は満足のできる作品に仕上がったと納得できたはずだ。しかしそれは時間とともに失われていく満足だったと思う。これは仕方が無いことだ。作品を作り上げた時の満足は薄れていくものだ。そして別パターンの方がよかったのではないかと考えるようになる。こうした方が良いのではないかと思って筆者が余裕を持って書いたのが「シガテラ」なのではないか。類似点がこの2作品には多い。別パターンを書いたのだと私は思っている。
しかし今回の「シガテラ」には余裕がありすぎた。つまり考える時間が多すぎたということ。考える時間が多いほど密度や濃さは逆に薄れていくものだ。今回の作品は、その密度の薄さがでてしまっている。心の赴くままに書いた作品にはそうそう勝てるものではない。
シガテラの最終回は白旗を挙げたかのように、突然終わりを迎えた。
感動は薄れていくものだ。しまいにはあの時の感動に慣れてしまって飽きてしまうものだ。もしあなたが今自分の中で作品にすべきものが思いついたならば心の赴くままに書いてみよう。時間をかけることで作品はよくなるとは限らない。ただこれ以上思いつかないと思うところまで考えてから書くことは大切だと思う。それからいっきに書き上げるのがよいと思う。